誰にとって?

学生の頃、道徳という授業があった

道徳、良い人、相手に嫌な思いをなんとかかんとか

ところで、相手に対する自分を

徹底的に教わった私たちは

もっとも大切にしなければならない

自分に対する取扱説明書をもらった事がない

人のことを思う美しさや

相手が辛いときに寄り添う優しさ

なんてものを徹底的に教わるが

自分のことを認めることを知らずに

70年ほど生きる

これは私的には大きな洗脳だ

とはいえ、自己中心的な振る舞いや

相手のことを考えない生き方は

なぜかとても反感を買う

自分という肉体がいなくなった世界なんて

存在しないも同然なのだから

自分のことを大切にしたほうがいい

というと・・

自分の言いたいことを

言えなかった思いを今こそ!

って、グラディエーターみたいに

剣と盾を取りに行く人がいるけど

そういうことじゃない

相手と自分と二極化させている段階で

それなのに自分の肉体の構成を無視して

脳が欲するままに生きていて

自分の肉体を大切にしていない人が

自分自身と向き合うなんてハードル高いよ

ということを言いたいだけ

自己中心的という言葉があるけど

自分が現実を作っているのは事実で

誰かのせいにとか、自分の能力がもう少し高ければとか

自分の才能がもっとわかればとか

もっと、ちゃんと世界を見てみよう。

成長していない自分は、ない

誰がどう考えても、全ての命は

成長するために存在する

成長しているかしていないかなど

愚問以外の何物でもない

成長以外ありえない

無用の価値判断についての省察

自然の理から学ぶ事は多い

意味のない事 と人は時に口走るが

その価値判断はどこからくるものか

心が生み出した 価値判断は

自然の理に 沿っているものだろうか

私に自信がないと 云う人が居る

その価値判断は

自然の理に 沿っているものだろうか

無用かどうかを なぜ私たちが

判断しているのだろうか

あなたの価値を なぜ

わたしやあなたがしなければならないのか

人の価値は

全て「天」「地」「血」が

知っている

それ以外のこと 意味 価値について

人の意識で あまり考えなくて良い

未来からの使者

これは昔の話です。
私が19の時の物語。今から19年前。

どうしても専門学校の授業料が足らず
バイトを3つ掛け持ちして授業料を稼ぎ出しました。
しかしながら、授業料の件が片付くとすぐに
スキルと時間の壁にぶつかりました。

宿題する時間がなく宿題を提出するのが遅れ遅れになるのです。
(Design専攻だったので毎日デザイン画を10枚、週ごとに70枚提出)

夢を追いかけながらも、3つのことが同時進行で壁としてやってくる。
それから、同じような課題が人生において3回ほどやってきました。

そして、30代中頃を過ぎた時。今から3年前です。

「乗り越えるべき課題」と言うお節介な存在はとても人の
「背中」が大好きでさらに困ったことに瞬間移動もできる
そんなことをボンヤリと考え、どうやら逃げられない
と、気づいた私は回転運動を知り立ち止まって後ろを振り返りました

振り返るとそこには、「課題」が存在していましたが。
私が考えている大きさでは無かったのです。
課題その物事自体へ向き合うことを恐れると
なかなか見えない「課題」の本質があります。

振り向いて、向き合い「ある」ことをすると
課題はそもそも無かったかのように消えます。

ですが、せっかく向き直り「課題」を確認したにも関わらず
その「ある」ことをせずに、また「課題」に「背中」を向ける
逃げ切れると信じて、課題から逃げるため、自分の走る速度を上げ
走るフォームを綺麗にしようと躍起になります。
しかし「課題」は瞬間移動できるためどれだけ引き離したと思っても
いずれは、簡単に追いつかれます。堂々巡りです。

そんな「人」を見ることはとても苦しく
でも、自己の意志を尊重してもらいたいから
あまり言及してこなかったのですが
今なら言えます。

「ある」ことをして、良かったと。

そう断言できるのは、その「人」は
他ならぬ3年前の私だからです。

ある人の行った実験では、ほぼ全ての人が亡くなる前に
「後悔」をするそうです。

「愛」への後悔だそうです。

もっと愛を示すべきだったことがたくさんあるのでは無いか。
私が3年前の私に言うことがあるとしたら、もっと「愛」を知ること。

愛の本質は、探せば探すほど本質から離れ
愛をばらまくとそれは愛ではない
「愛する」は分解できません

そこに最後に気付くそうです

「課題」は「愛」に満ちていると言うことではなく

「後悔」の無い人生を過ごすには
幾度となく現れる「課題」を観ることです。

未来から言えるのはそこです。

2020.8.15