多様性と統一性

エジプト哲学を研究して行く中で、エジプトの古文から読み取れることがあります。

それは、1つの精神とも言えます。

「多様性の中にある統一性と、統一性の中にある多様性」

です。

私たちは、統一というものを目指して、皆が1つの目標のもとに集い協力し一致団結して物事を進めて行きます。

とても崇高な想いである事に疑う余地はありません。

しかしながら、物事を推し進める中で皆が1つの指標の元に5段階に分類され、富と人間性という二元性の中で生きなければならないという強迫観念にも似た集合意識が生み出されました。

時代は巡ります。

私たちは本来、人間の持つ多様性とその中にある統一性を見いだすことができます。時代はゆっくりと、「多様性の中にある統一性を認める」生き方にシフトしているのではないでしょうか。

多様性こそが「豊かさ」であり、多様性が新しいイノベーションを巻き起こす。私はそう考えます。

周りを見渡してください。

社会では、たくさんの意見を求めていながら、それは前もって、ある程度の人たちのなかで決定されている。このようなケースが多く観られます。

それでいて「私たちはたくさんの意見を吸い上げる」と声高に叫ばれても私には滑稽に映るのです。

誰かより優れていることがそんなに快感なのでしょうか。

他の誰よりも何かを知っているということは「真」の意味で優劣の判断材料となるのでしょうか。

「知らない」でいいのではないでしょうか。

「無知」を蔑むことで「有識」の価値が上がるのでしょうか。

全てに浸透している、「生きるエネルギー」

それは肉体と心の両面に存在しています。

三次元も五次元も同次元です。

物質主義・精神主義は「主義」という「統一体」の2つの側面です。

よく船の例えで、船長は行く方向を決める。皆が行く方向を決めていては目的地に進まない。役割分担が必要だと言われます。しかし、本当の意味でそれはリーダーシップを表現しているでしょうか。

フラット化する社会と言われ、しばらくたちますが、社会はまだ明確なリーダーを求めているように感じます。

真の意味での多様化する社会。それは統一性と多様性が同時に存在していて双方のアプローチで成り立つものであると信じています。

個々の能力が集まることの力強さ。全体は個々の集合であることの再認識。

その、個々が多様性を発揮する。

抽象的な表現ですが、この思想はテクノロジー業界では徐々に浸透しているように思います。

ある本を読んでいて、すごく素敵な表現を見つけました。

時代は、懐かしい未来へ進んでいる

過去に戻ることは出来ません。しかしながら、私たちのDNAに刻まれた記憶はどこか懐かしくそれでいて新しい時代を求めていて、今、それが全体無意識として刻を進めているように感じます。

秘伝

ロジャー・ベーコン著
「第三著作」より
 
秘伝は明かされると
その効力が半減する。
 
人々は
秘伝について
何も理解しない
 
それを
明かされたとしても
平凡な用い方しかされず
 
その価値は
すっかり
失われるだろう
 
悪意あるものが
もし
秘伝を知れば
誤った用い方をして
世界を
破滅させるであろう
 
わたしは
神の意志に
逆らうこと
できないし
学問にとって
もっとも
有益なことを
妨げることも
できない
 
ゆえに
わたしは
誰もが
理解しうる形で
秘伝を
書き記すことは
しない

CH2

A「運動するものはすべて、何かの中で、何かによって、動かされるのではないか」
B「もちろん」。
A「では、運動するものより、その中で動かされるものの方が大きいのが必然ではないか」
B「必然です」
A「ならば、動かすものは動かされるものよりも強い?」
B「たしかに強いです」
A「ところで、動かされるものは、運動する力とは反対の力を有するのが必然では?」
B「たしかに」

A「ところで、宇宙は大きいものだが、体はこれよりも大きいのではないか?」
B「すでに同意されていることです」
A「密なるものでもある。他の多くの大きな体、むしろ体であるかぎりのすべてのものに満たされているのだから」
B「そのとおりです」
A「すると、宇宙は体か?」
B「体です」
A「また動かされるものでもある」
B「その通りです」
A「それでは、その中で動かされる場所はどれくらい大きいか、また、その自然はどのようなものでなければならないか。運行の継続を受け容れることができ、運動するものが狭さのせいで圧迫されて、運動を抑えることがないためには、はるかに大きいのではないか」。
B「何か巨大なものです」

A「それは、いかなる自然のものか?。反対のもの。体に反対の自然とは、非体である。体ではないもの?」
B「はい、すでに同意されていることです」。
A「すると、それは非体であり、非体は神的なものであるか、あるいは、神であるかだ。ここで神的なものとわたしが言うのは、生成したもののことではなく、不生なるもののことである」

神的なものであるなら、本質的なものである。しかし、神であるなら、本質さえないものとなる。ただし、次のような仕方でのみ思惟される。

すなわち、第一のものである神が思惟されるのは、わたしたちによってであって、神自身によってではない。なぜなら、思惟されるものは、思惟するものにとって分離感覚の対象となるからである。ところが神は思惟されるものではない。神が神を思惟するとすれば、思惟する神は思惟されるものとは別のものになるから、自身によっては思惟されない。

これに反し、わたしたちにとっては神は別のものである。故に、これはわたしたちにとって思惟される。神が対象者で、私たちが観察者である。

ところで、場所(ポインタ)が思惟されるのは、神としてではなく、場所としてである。しかるに、さらに神としても〔思惟される〕なら、場所としてではなく、包容する作用力としてである。

ところで、あらゆる運動するものが運動するのは、運動するものの中でではなく、静止しているものの中でである。そして、動かすものは静止しているのであり、ともに動かされることは不可能である。

B「すると、どのようにして、こちら側のものらは、動かすものといっしょに動いているのですか。というのも、あなたはこうおっしゃいます『惑星諸天球は、恒星天球によって動かされている』と」
A「それは、共なる運動ではなく、逆なる運動である。なぜなら、〔両者は〕同様に運動するのではなく、互いに逆だからである。そして、逆運動は、運動の支点を静止したものとして有する。なぜなら、抵抗力は運行の静止点だからである。こうして、惑星諸天球は、恒星〔天球〕に対して逆向きに運動する。つまり、互いに逆向きに出会い、逆方向性そのものに従事して、静止点によって動かされるのである。そのほかの仕方では不可能である。例えば、あなたの観察するあの星は、沈むことも昇ることもなく、同一のもののまわりを回転しているが、あれは動いていると思うか、静止していると思うか?」。
B「動いています」
A「いかなる運動か?」
B「同一のもののまわりを回転する〔運動〕です」。
A「同一のものの周回、つまり、同一のものの周りを回る運動は、静止点によって引き留められた〔運動〕である。なぜなら、関わるものは、超えるものを妨げ、超えるものが妨げられると、関わるものの中に成立し、こうして逆向きの運行も、逆方向性によって固定されて、一定の状態を保つのである。さらに、地上で肉眼に観察される範例をあなたに述べよう。死滅する生き物 (人間)が泳いでいるところを観なさい。すなわち、水が運行しているので、手足の抵抗は、その人間にとって静止となり、水といっしょに流されることがないのだ」。
B「納得します」
A「したがって、すべての運動は静止の内にあり、静止によって動かされているのだ。だから、宇宙と、あらゆる質料的な生き物との運動は、体の外のものらによって生ずることになるのではなく、内のものらによって外のものに生ずることになるのである。内のものらとは、魂とか霊気とか、あるいは他の何か非体的なもののことである。すなわち、体は入魂の体を動かすことはなく、たとえそれが無魂であったとしても、断じて体を〔動かすことは〕ないのである」。

B「それはどういう意味で言っているのですか?そうだとすると、樹木や石やその他あらゆる無魂のものら、これを動かしているのは体ではないのですか?」
A「全然違うのだ。なぜなら、無魂のものを動かす体の内なるもの、これは体ではなく、荷なうものの〔体〕と荷なわれるものの〔体〕との両方を動かしているのだから。そういう次第で、無魂のものが無魂のものを動かすことはなかろう。だから、〔魂が〕2つの体を一人で運ぶとき、加重負担なのをあなたは観る。そして、運動するものらは何かの中で、何かによって動かされるということも、明らかなのである」。

B「では、運動するものらは空虚の中で運動しなければならないのですか」
A「口をつつしみなさい、

存在の道理によって、諸有のひとつとして空虚なものはないのだ。つまり、有は、存在によって満ちていなければ、有であることはできなかったであろう。というのは、存在するものは、空虚になることは決してできないからである

B「それでは、空虚なものというようなものはないのですか?例えば、壺とか、瓦とか、桶とか、その他似たり寄ったりのものです」
A「ああ、何という迷妄であることか。むしろ満ちたものらであり、詰まったものらであるのに、それが空虚であると考えるのか?」。
B「どういう意味で言っているのですか?」
A「空気は体ではないか」。
B「体です」。
A「では、この体は、諸有のすべてを貫き、貫くものとして万物を満たしているのではないか?。さらに、体は四つ〔の体〕から混合されて成立してのではないか。それなら、あなたが空虚というものらはすべて空気で詰まっているのである。そして、空気で〔詰まっている〕なら、四つの体によっても〔詰まっている〕のである。つまり、あなたが詰まっているというもの、これらはすべて空気について空虚であるということが。それらは、他の諸体によって占められており、空気を受け容れる余地をもたないからである。だから、あなたが空虚であると言うものら、それは空虚ではなく、空洞と名づけるべきなのだ。なぜなら、存在という点では、空気と霊気で詰まっているのだから」。

B「この道理には反論できません。それでは、万有がその中で動かされることを、わたしたちは何と云えばよかったのですか」。
A「非体である」
B「それでは、非体とは何ですか?」
A「それは、

全体が全体から自らを包みこんでいる理性であって、すべての体から自由であって、迷動せず、受動せず、触れ得ず、自ら自己の内に静止し、万物を包容し、諸有を救済するもので、善、真理、霊気の原型、魂の原型は、光線のようにこれから発するものである

B「それでは、神とは何ですか。
A「これら存在するものにとっても、万物にとっても、あらゆる有のおのおの一つにとっても、在ることの原因である」

〔彼が〕非有よりほかに見逃したものは何もなく、諸有から生じるものは非有〔複数〕から生じることはない。なぜなら、非有〔複数〕が生成されることはなく、何ものかに成り得ない自然を有するのであり、逆に諸有は、決して在ることがないという状態を有しないからである」。

B「決して在ることがないというのは、どういうことを言っているのですか?」
A「つまり、神は理性ではないが、<理性が>在ることの原因であり、霊気ではないが、霊気が在ることの原因であり、光ではないが、光が在ることの原因である。ここから、神は次の2つの呼び名によって崇拝されなければならない。なぜなら、他のいわゆる神々の中にも、人間どもの中にも、天使たちの中にも、神ひとりよりほかに、程度の差はあれ、善であることのできるものはいないからである。ただ〔神〕ひとりがそれであり、他の何ものもそれではない。また、他のすべてのものは、善の自然に包容されない。なぜなら、〔他のすべてのものらは〕体と魂であり、善を包容することのできる場所をもたないからである。

善の大きさはどれほどかといえば。体にしろ、非体にしろ、感覚されるものらにしろ、思惟されるものらにしろ、およそありとある有〔複数〕の存在に匹敵する。これが善であり、神である。だから、他の何かを善と言ってはならない。また、ひとり善〔FS〕よりほかの何かを神と決して〔言ってはならない〕。

そういう次第で、道理のうえでは、善は万人によって言われるのであるが、いったい何であるかは、万人によって理解されていないのである。それゆえ、神もまた万人によって理解されておらず、無知のせいで、神々や、一部の人間を、善と名付けるのだが、〔彼らが〕そうで在ることも、そう成ることも、決してできないのである。なぜなら、〔善は〕神から取り上げることができず、分離することもできない、神自身だからである。そういう次第で、他のすべての不死なるものらは、神という名称で敬われている神々なのである。しかし、神は敬われることによってではなく、自然によって善なのである。すなわち、神の自然は一すなわち善であり、両者の種族は一つであって、これからあらゆる種族が生じるのである。というのは、善なるものは、すべてを与え、何ものをも奪わぬからである。だから、神はすべてを与え、何ものをも奪わない。かくして神は善であり、善は神である。

TLG1286
CORPUS HERMETICUM
vel Hermes Trismegistus, vel Hermetica
(A.D. 2?/4)
2 1
1286 002
Dialogus (sine titulo), ed. A.D. Nock and A.-J. Festugière,
Corpus Hermeticum, vol. 1. Paris: Les Belles Lettres, 1946 (repr. 1972):
32-39.
5
(Cod: 1,349: Dialog., Phil., Theol.)