Ⅵ.4-6

わたしは、神に感謝している。
善の覚知について、それが世界の中にあることは
不可能であると、わたしの理性に伝授してくれたから。

世界は悪の充満である。
これに反し、神は善の〔充満〕
あるいは、善が神の〔充満〕である。

美しきものらの卓越性は彼の基にかかわっている。
ましてやあのかたに属する〔卓越性〕そのものは
さだめし、より清浄に、より純粋にみえるに違いない。

そこで、あえて云うべきである。
神の本質は、<本質を有していると仮定して>美であり、美にして善なるもの。
この世界にある何ものにも把握されないのである。

肉眼に入ってくるものはすべて幻影であり
影絵のようなものだからである。

これに反し、〔肉眼に〕入ってこないもの
とりわけ美と善は、肉眼では神を見ることができないように
肉眼では見ることができない。

それらは神の自己完結的な部分、
ひとり彼にのみ固有な〔部分〕、
親(みずか)ら〔本来〕の部分、
分離できない部分、
最も恋される部分であって、
これを神自身が恋したい、
あるいは
これが神を恋いしたうところのものだからである。

もしもおまえが神を理解することが可能なら、
おまえは美にして善を<理会>することができるであろう

燦然と輝いているもの、
神によって燦然と輝かされているものを。

この美は無比であり、この善は無類である。
神自身もまたそうであるように。
だから、おまえが神を理会するように、
美にして善をも理会せよ。
これらのものは、神から分離できないゆえに、
他の生き物らと交わり得ないからである。
おまえが神について探求するなら、
おまえは美についても探求することになるのだ。
それ〔美〕へと通じる道はひとつ、知識を伴った敬虔である。

覚知をもたぬ者ども、敬虔の道を歩まぬ者どもの話。
人間が美であり善であると軽く言う。
だが、
言葉で美しき思想を語るだけであり、
善とは何であるか夢にも観ることなく、
あらゆる悪にはじめから捕らえられ、
悪を善であると信じ、
そういうふうにしてこれ〔悪〕を飽くことなく用い、
これを失うことを恐れるばかりか、
所持するだけでなくむしろ増やすために
あらゆることを競い合う人間の姿が〔美であり善であると〕。

しかし悲しむな。
こういったことが人間的善であり美もまたそうであり
われわれをこれを逃れることも憎むこともできない。
すなわち、何よりも最も悲しむべきは、
われわれがそれを必要とし、
それらなくしては生きられないということである。

碧解

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