ⅵ.1-3

1

善は、ただ一つの内でなければ、何ものの内にもない、
いやむしろ、善は常に全てそのものである。
善はあらゆる運動と生成の基でなければならない、
善はみずからのまわりに静止せる作用力を有し、
不足も過剰もなく、満ち満ちており、供給者であり、
万物の始まりに、あった。
一切を供給する善とわたしが言う時、
それは全体であり、永遠に善のことを指す。

本来何ものも不足していないので、
それの獲得を欲望して、悪しき者となることもなく、
諸有の何ひとつ彼にとって失われることもない。
これを失って悲しむこともない。

また、彼よりまさるものは何もないので、
その何かによって争いにおちることもない。
それゆえこれを恋することもなく、
聴従しないものは何もないので、これに怒ることもなく、
より知恵のあるものもおらず、張り合うこともない。



 さて、これらの何ひとつ基に帰属しないのであれば、
善以外に何が残されていようか。
 このような基の内に<他の>何ものもないように、
他の何ものの内にも善は見出されないであろう。
本来、他のものはすべて万物の内にある。
それは、小さきものらの内にも、大きなものらの内にも、
一つずつのものらの内にも、
万物よりも大きく、かつ最も力ある生き物そのものの内にも。

なぜなら、生み出されたものらは受動に満ち、
生成そのものが受動の虜だからである。
しかし、受動のあるところには、善は決してない。
善のあるところには、ひとつとして受動は決してない、
なぜなら、昼のあるところには、決して夜はなく、
夜のあるところには、決して昼はないからである。
ここからして、生成の内に善があることは不可能であって、
あるのは、ひとり不生のもののみの内である。

しかしながら、質料(物質)の内には
一切のものの分け前が与えられているように、
善にもまた分け前が与えられている。
この仕方で、世界は、みずからも万物を制作するという点で、
制作の役割において、善である。
しかし他のすべての場合には、世界は善ではない。
というのも、受動するものであり、
動くものであり、受動の制作者だからである。



 人間においては、善は悪と相関的に配列されている。
すなわち、極度に悪でないものは、この世では善であり、
この世の善は、悪の最小部分である。
したがって、この世では善を悪から浄化することは不可能である。
この世では善は悪に染まっているからである。
悪に染まれば、もはや善にとどまることはない。
とどまることができなければ、悪となるのである。
じっさい、善は全のみの内にあるか、
あるいは、善とは全そのものである。

こういう次第で、
人間の内には善という言葉のみがあるのであって、
その働きはどこにもない。
不可能だからである。
なぜなら、物質的(質料的)な身体は、
その働きを包容することができないからである。

悪、諸々の労苦、諸々の苦痛、
諸欲望、諸々の怒り、諸々の欺瞞、
無分別な諸々の思念によって、
どこもかしこも緊縛されているからである。

そしてあらゆるものの中で最大の悪は、
これら先に述べられたものの各々が、
この世の最大の善であると信じこまれていることである、
それ以上超えるようもない悪であるのに。
大食は、あらゆる悪の供給者であり、
迷いは、この世における善の不在である。

碧解