諦めが相対的であるなら

ある事象に対して、諦めること。
諦めることも時に必要だと考えること。
諦めないことが必要だと考え、歯をくいしばること。

私たちは答えを導き出すことを自らに課すことで、一時の安心感を得ようとしているのではないでしょうか?
「魂が喜んでいない」と、私たちはことば巧みに自分を客観的に評価することがありますが、それが逃げであると思ったり、自分に正直になることが次のステップであると考えたり。忙しいのです。

この際、もうどちらでも良いではありませんか。
健康的な生き方をすることはとても必要ですが、だからと言ってこの世界での肉体儀式をいつか離れることを考えた時に、そこまでエネルギーを様々な方面に散らす必要がどこにあるのでしょう。

諦めが相対的であると仮定して、それでもいいではないですか。
決めつけることで私たちは一つずつ、世界を作り出していますが、作り出された世界は正解ですよね。
この世界において、人生を諦めた人のことをバカにすることができるほど私たちは完成された人間性を手に入れているのでしょうか。

人よりも自分のことを考えて、豊かに生きることは悪なのでしょうか。
自分のことを何より優先に考えて生きることは、悪なのでしょうか。
自分のことを犠牲にして、相手に合わせる人生は、悪なのでしょうか。

何かを諦めたら、それは何かを諦めないことです。
私たちは生きている。
大いなる何かに守られていても、守られていなくてもそこに大差はなく、私は今目の前に起こっている出来事に対して。
何かよくわかりませんが、ありがとうと言いたくなるのですね。

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