失われたと思うものが、私が欲しいもの

怒りを抑えることで、怒りをコントロールできたと思い込む。しかしそれは、何かのエネルギーに変換されなければ、どこかでコントロールを失ってしまう。

もはや自分の気持ちはどこかに行ってしまったと思う心の中には、探し求めている自分の気持ちを目の前にして逃げたいという衝動が隠れている。

失うことに慣れた私たちは、極限の状態で、取得と放出を繰り返していることに気付いてはいるものの、何も手に入れていないと嘆き続ける。そして、ある日全てを手に入れていることに気がつく。

人生とは借り物競走であり、今と昔と未来について考えている中で、握りしめた紐の片割れがすべてとつながっていることに気づく。

これは詩です。

そして私たちは、この一行があることで、内容の統合を破棄し、言葉のままを受け入れるようになる。空間と静寂を理解している人が、空間と静寂という言葉を乱発することはない。

これは、物語です。

私たちは、どこかで自分の人生とは別のしあわせな人生があると信じて生きているが、それと、夢を追いかけている人や、人生に答えがあると信じている人との総和は、いつも等しい。

何もないところに、色を塗ろう。私たちの人生を無機質なモノクロームで、色を奏でよう。私はいつでもここにいる。そして、これからもここに存在し続ける。何も考えないこと。

私たちが思う人生で求めているものは。
ここにある。そこにもある。
求めないところにもあり、求めているものにもある。
同じ形を纏わないことが、答えだとして。

答えとともに並走していることに早く気付くべきだ。

失われたものを追いかけるのは良いことだ。
しかし、失われたものはこたえのなかにある。
答えを探す営みの中に、問いと答えがあるとして、思い悩む意味がどこにあるだろうか。

私は。あなたを混乱させる。
そして、混乱させられていることを知ることで、あなたはこの文章を読み直す。

行間に、答えを忍ばせているとしたら。

4度ほど読めば、分かるだろうか?

探してみてほしい。
答えに捉われているあなたが答え合わせを離れた瞬間に訪れる静寂について。

染井碧