短編物語:変幻

多幡めぐみは、少し前から目を覚ましていたが、布団の差し込む太陽の線が、時間とともに動いて行くのを見ているだけで立ち上がることはしなかった。

彼女には二つの心配があったが、その一つはどうにも解決しそうになく、それは極端に言えば今日が無事に終えることができるかどうかという悩みのようでもあった。

「私の悩みは、いつになったら解決するの」

ほらきた。とめぐみは思う。今日も始まる。このどうしようもない世界が。

「私の考えをいちいち言葉にしないでくれる?」めぐみは、テーブルの上に置いてあるうさぎのぬいぐるみに、呟くように言う。そう言って、体を反対側に向けた。

「人間は悩む生き物なの。悩みたいのよ。全てがうまく言ってほしいと願っていながら、本当にうまくいきすぎると、なんだか怖いと思ってしまう。ちょうど良いバランスのところで、私は他の誰かより、少しだけ幸せになりたいだけ。飛び抜けた幸せを手に入れるために、誰よりも辛い道を歩くなんて、選びたくない」

おそらく、いつものように無表情のまま、うさぎのぬいぐるみは私が思っていることを、言葉にしているのだろう。

めぐみの前に、数日前に突然現れ、あらゆる思念を言葉に変える能力を私に勝手に植え付けた、あの魔法使い。めぐみは、その魔法使いのせいで、大きく言うと人生、小さく言うと生活が、今、言葉で溢れている。めぐみが何かを思えば、すぐに、近くのものがそれを言葉にする。

それは、家でも外出先でも同じことだ。自分が考えていることを言葉にされるなんて気持ちが悪い。めぐみは、背中で延々と念仏のように言葉を唱える、うさぎのぬいぐるみを想像して目を閉じた。

「辛いから寝たふりしよう」

「だから!」声を荒げためぐみは、布団を必要以上に激しく捲り上げ、体を回転させ立ち上がる。うさぎは、何も言わない。この状態だとただのぬいぐるみだ。この思念の具現システムは、めぐみが口に出したことに対しては何も反応しない。

 

**

 

「あなたの命は延々と引き継がれてきました。それをこの世界の言葉で命のリレーと言います。あなたの命は突然生まれた0からの命ではないのです。その大元から引き継がれたものを受け取ったに過ぎない。命がまず最初にあり、そこに意識が加わる。そしてそれを人と呼んでいるのです。細胞だけの時はこの世界に具現化することはできず、それが形をまとうことで、人としての現実化が行われるのが体内の10か月なのです。雄介の体はもう物質を離れました。そしてもうじき意識がなくなります。それは雄介としての記憶を持つ意識です。」

(なんで俺にそんなことを言うの?このまま意識がなくなったら本当の死でしょ?)

「あなたの命はなくなりません」

(どういうこと?命はなくなりませんと言われても、意識なかったら生きている感覚なんて感じることできないしそんなの生きてても無意味だけど)

「だから救いに来たのです」

雄介は黙る。

「雄介君」

黙っていた女性の声がした。いたんだと雄介は思う。

「はい、私はずっとここにいました」

「あなたに選択権をお渡しします」

(選択権?)

「はい、このまま同時系列に転送をするか。前後の時系列に転送するか。前者はすべての記憶をリセットしてからの転送になりますが、後者はトリガーを用意して、ある条件が満たされた場合に、これまでの記憶が戻るようにします。しかしそのトリガーについての記憶は消えて状態で転送となります」

(変なの。そしてあんたらは何者だよ)

「私たちは、プログラムです」

(まあいいや)雄介はこの事態が夢であってほしいと考えた。そしてそれが頭の中の声に聞こえることを想定し、どっちでもいいやと思う。

「どちらでもいいということですね。ではシャッフル転送を致します。この行先については私たちもコントロールできませんので、あらかじめ言っておきます」

(どっちでもいいよ。どうせ記憶消えるんでしょ?)

「わかりました。では、闇の中で縦に伸びる一筋の光をイメージしてください。雄介君の記憶にある一筋の光です。そして、その光が横にいくつもコピーされて増えていく様子を想像してください」

雄介は光を想像する。

「では、行きます。3、2、1・・・」

 

**

 

日出子は、いつもと同じように目覚ましのアラームが鳴る前に目を覚ます。目覚めがいい時はそのままゆっくりと体を起こすのだが、今日は目覚めが良くないと思う。体を半分だけ起こし、時計に目をやるとまた布団に、潜り込む。そして、またゆっくりと起きて目覚ましのアラームをオフにする。

今日は土曜日。日出子は市役所に勤めているで今日の仕事は休みである。しかし、彼女は個人的に体と心の相関について考えるグループを主催しており、今日は午後からそのイベントがある。

そんなことを、枕と頭の接地面を感じながら思っていると携帯のバイブが鳴る。テーブルの上で、まるで寝ていることが悪とでもいわんばかりに、主張する。日出子は「はいはい」と言いながら、テーブルまで歩いて行く。

日出子が携帯のアラームを止めると、画面上にメールアプリがメール到着を知らせているのに気づく。

アプリを開くと、3年前に連絡の途絶えた人からのメールが届いていた。

(お久しぶりです。元気にしていますか?今度日時を合わせてどこかでお会いできませんか?菅山)

菅山。忘れていたというより、その存在を消していたというのが正しい表現だと日出子は思う。なぜ、今頃連絡をしてきたのかという疑問。自分の中ではもう彼は存在しない人だった。記憶の中から消去していたのにも関わらず、このような事態が起こっているということは、自分の現実では、彼がまだ存在していたということなのだろう。

日出子はいったんメールアプリを消した。連絡を返すかどうかを一日考えてからにしようと思ったからだ。それよりも、今日の午後のイベントの進行について考えたほうがいい。それなのに、頭の中からはずっと『菅山』という単語が離れずに、ついてくる。

自分の妹を死に追いやった人間。日出子の中では、彼はそういう認識だった。そして悪人というカテゴリに格納されている。会ったところで、謝罪の言葉を聞くことになるのか、それともあの事件に対する弁明をされるのか。勝手に、私の世界から消え、また現れる。その真意について、日出子は考える。

ちょうど、今日のイベントのテーマが「自分が作り出す現実と真実」だったから、ちょうどいい題材かもしれないと思いながらも、妹である美佐希が隣で大反対をしているようにも思える。そんな狭間に落ちながら、日出子はコーヒーメーカーのスイッチを入れる。

日出子は渋谷駅の改札を出て、空を見上げた。曇っていたはずの空はいつの間にか青空が優勢になり、日出子は太陽の光を遮断するために日傘を取り出す。通行人が通らないか気にしながらゆっくりと傘を開いて頭上に持って行く。

「生きる指針というか、みなが普通に生活している様子がここにはあって、ほとんどの人はそんなこと気にもとめていない様にみえるよ」

交差点に歩いて行く途中で、車いすに乗っている一人の青年とそれを押している女性の話し声が聞こえてきた。

**

 

正直、自分のこと以外、どうでもよかった。小学生にあがる前まで、すべては自分の中で完結した世界だったはずなのに、いつのまにか自分は他者を通し見えてくるものになった。自分の気持ちがどのようなもので、それが相手に対してどのように影響するのかばかりを考えていて、自分というものを失っていった。

私は、他者への奉仕を行うことで、その失われた自分のある部分を探したいと思っていたのかもしれない。

私が感じたすべての挫折は、私のメンタルを強くするのではなく、自分の優しい気持ちからどんどんと遠ざけていったということに気が付いた。すべてのことをすこし客観的にみている私はどこまでいっても喜びが無い。

そしてすべてを綺麗に収めようとしている私の心は、その都度嘘ばかりつくようになり、本当の自分の気持ちを深く深く封印して、うすっぺらい現実世界の表面を泳いでいくため、泳ぎのスキルだけうまくなる。