認知と意識と思考

本日の物語。書いた日がバラバラなので、まとまりに欠けています。

・・・

あなたは、自宅にいます。椅子に深く腰掛けています。

両手は膝の上に、手のひらは上を向いています。

目を閉じて。呼吸に意識を向けて。

回数は縛らず、しばらく呼吸して。

そして意識を呼吸から外します。

次に、周りの音を意識して下さい。

何か音していると思いますので、その音を探しましょう。

では、やってみてください。(5分)

終わったら続きです。

・・・ワーク・・・

何か音が聞こえましたか?

必ず何かの音はしていますよね?

でも、その音は意識していないときは、よほどうるさくない限り認知していても、意識することはありません。

同じように、あらゆる物事はそこにあります。もともとありました。私たちが認知しない限り、存在していてもしていなくてもどちらでもいいのです。

これが、認知と意識の違いです。

次に、思考について。

例えば、夕日を見るぞ。と思考する。もしくは、昔見た夕日を想像する。

頭の中に夕日の映像を見る。このとき、頭の中にある夕日は、思考の産物であり現実ではありません。ですが、その大元の記憶を辿りながら思考をしているとしたら、この夕日の発生は一体どこがスタートなのでしょうか。

同じように、悲しい出来事が目の前に生じているとしたら、私たちの思考プロセスは、まず出来事を認知し、そこから何かを意識して、次に思考するということになると思うのです。

出来事と、悲しいという結論の間に、少なくとも2個のフィルターがあると思います。

私が思う「あるがまま」というのは、この出来事のみにフォーカスし、出来事をじっくり眺めて思考を遮断するという意味ではなく、出来事から悲しいという結論を出すまでの思考プロセス全体を含めてあるがまま。ではないかと思うわけです。

幼児は、この言葉を覚えたらお菓子がもらえると考えてはいません。覚えるか覚えないか、自分への期待があるのかないのかより、勝手に覚えていきます。

前回のラジオでお伝えしたように過去と未来のどちらに時間軸を置くかが大切ですが、幼児と大人では、時間軸が違います。小さい頃は物事の考え方は自分中心であるため、都度感情表現を行いますが、達成という側面においては、「であるべき」「自分のモチベーションをあげるため」という思考はないはずです。

目の前に、どうしても手に入れたいおもちゃがあり、その目的を達成するためには、地面に這いつくばっていては、達成されない。どのようにしたら、それを達成できるか、自分の動きをもう一度じっくりと考えてみる。もしかすると私は、二本足で立つことを約束されていて、その能力があるのではないか。そのために、関節の動かし方を学ばなければならないし、呼吸を整える必要もある。あとは、そうだ、自分を信じることも必要だ。

幼児のプロセスをフル思考でまとめると、こんなところでしょうか?言葉をたくさん知っている私たちは、大抵目の前のことに対処する場合このように考えますね。

しかし、幼児のプロセスはいたってシンプルです。

おもちゃを認知。手を伸ばす(行動)。届かない(認知)ため、限界まで、できるだけ近づく(行動)。もう一度手を伸ばす(行動)。試行錯誤の思考は多少あるものの、そのほとんどが、ひたすら認知と行動の繰り返しです。

実は、思考より体感を重要だとする考え方は、「プラグマティズム」という実用主義として存在しています。知識が真理かどうかは、生活上の実践に利益があるかないかで決定されるという考え方です。

実は、これ、トリックなのですが、このように知識を増やすことで私たちは、思考の幅を広く持っていると思いながら、自分で枠を決定していくのです。

そして認知に対する信頼が減り、思考による答えを重要視していくのです。

ここまで思考を蔑みましたが。逆に考えて見ましょう。私たちは思考することで不幸になっているのでしょうか?

もちろん違います。

なぜなら思考しなければ、早死にするリスクが高まるからです。車を認知して飛び込んだら、怪我します。まあ、これは極端ですね。

思考は大事です。しかし、幸福は思考の中にはないのです。

ではどこにあるのでしょう。

行動の中にもありませんね。

私は、幸福は認知の中にあると思うのです。というより認知ができる全ての人はそもそも幸せであるという表現でしょうか。

幸福になりたいと願うのであらば、認知・意識に思考をプラス。わさびのように。くらいでいいのではないかと思います。

覚醒・目覚め・さとり

一旦これらのキーワードを離れ、幸せを認知してみましょう。

とても簡単です。

「私は、幸せを知っている」これで大丈夫。

そして、思考が現れたらそっと伝えてください。

「久しぶりだね」と。