物語の断片②

私は、半年ぶりにタマノの家にいる。タマノは少し痩せたように感じた。いつものプロセスで、執事が私をタマノの部屋に誘導している時、一台の黒いベンツSクラスが入ってきた。

滑らかにロータリーに停車すると、運転席から執事が降りて、後部座席のドアを開ける。黒い車体に白い手袋が際立って見える。扉が開くと、見慣れない二人が降りてきた。

男性は、体系のよくわかる細目の黒いスーツで、背は高く、細目のスーツがより身長を高く見せている。女性は薄い青色のワンピースに顔が見えないくらい大きなつばのついた帽子を被っており、風で飛ばないよう右手で押させている。

立ち振る舞いと動き、その一つ一つの組み合わせと身に着けている装飾品からして、私とは生きる世界が違う人たちであることを判断するのに十分な材料であった。

執事は、タマノを一度見てから私に「彼の両親です」と言う。女性が執事に気づき「田山、こちらへ」と執事に言うと、彼はその言葉に反応して、女性の方に歩いて行った。

タマノの部屋に入るとき、田山さんが追いついた。両親は、外国から一時帰国をしており、タマノの状態を見に来たそうだ。帰りに、挨拶だけしてほしいと言われ、私は頷いてからタマノの部屋に入った。

タマノのベッドの位置は若干変わっていた。より窓側に近い場所で、景色を眺めることができるようになった。視界が拡がった。私はそう判断する。

私は、タマノのベッドの横に座り、タマノ合図を送る。

タマノは、私の方に体を向ける。

≪やあ、こんにちは≫

と、画面に表示された。

今回から、タイピングをするのではなくて、マイクに声をかけるだけでその音声が文章化されてタマノに伝わるようにシステムが更新されていた。タマノの返信がモニターであることは変わりがなかったが。

「こんにちは、タマノ。随分と久しぶりだね」と言う。一文字の間違いもなく私の言葉がモニターに映し出されたことに、私は少しだけ感動した。タマノは≪そうだね≫と返す。

「そういえば、タマノって、どんな漢字を書くの?」と聞く。

≪玉埜≫

返信はすぐに帰ってきた。

≪ただ、ものに意味をつけるとか、ものに名前をつけるということは、人間の思考が介入したということだから。介入する前の姿を言葉にせずに感じているだけが本当は幸せな状態なんだ≫

標識に『TAMANO』と書いてあるから、なんて呼んだらいいのか聞いたところ、タマノでいいと言われて気にしなかったのが、両親を目にしたことで、当たり前のことであるが、タマノが人の子として生まれてきて、家族の一員であることをすっかり忘れていた自分がいた。

≪名前を聞いたら、イメージがある程度決まってくる。名前を知るのは喜びかもしれないけど、名前を知ることと知らないことで、その人の人格が変わるということは無いから、あんまり意味が無いよ≫

タマノは、前回の訪問からしばらく連絡が取れず、休養が長引いていると執事の田山さんが言っていた。前回の訪問時に咲き始めだった桜は今、これ以上ない程にクリアな緑色をしていて、風に揺られかすかにその葉を動かしている。

私は、窓の外を見ているタマノと同じように、窓の外の景色を眺めていた。タマノの発言にどう返そうかと考えながら。

「じゃあ、今日は、名前について。自分自身、いちばん気になっていることでもあるし」しばらくお互いの前に流れている時間を味わうと、自然と今日の流れについて答えが出た。

≪わかった≫

タマノは直ぐに返事を返した。今日のタマノは、レスポンスの良さを感じる。いつもはゆっくりと考えてから答えが返ってくる。

「名前のところとはちょっと違ってくるけれど、私が思うのは人の使う言葉について。私たちは、生まれた時は皆が同じ状態で、数字で言えばゼロの状態というのかな。それなのに、感情の表現が次第に言葉に変わっていく中で、言葉で作り出せる世界を本当の世界だと勘違いするようになってしまった。さっき、タマノが言った、名前を付けないということなのかもしれないけど」

少しだけ長くなってしまったと、思って画面を確認する。

≪言葉で表現される世界が本当の世界だと勘違いするというのは初めて聞いた表現だよ。確かに、この世界を分けるならそんな表現が正しいかもしれない。けれども、この世界には本当の世界がないから。言葉で作られた世界があるとしたら、言葉で作られていない世界が存在するというのが良いかもしれない≫

「やっぱりこの世界は二つ存在しているということ?」

≪僕のシステムでは、その辺りの答えを出すことが出来ないようになっているみたい。この世界が二つ別々に存在していると思う人の認識している世界では、そうだし、この世界は一つだと信じている人々の中では、そういう世界になってしまうと思う。あくまでも仮説だけど≫

「タマノは、タマノじゃなくなったら、一体何になると思う?」

≪存在としては、生命体ということになるのかな≫

「ということは、私から名前をとったら、生命体。でも、生命体となってしまったら、人間としての私は、それ以外の人間と同じということになる」

≪別である必要が無いよね≫

「でも、個性があったり、すべての人がかけがえのない命として、楽しみながら人生を謳歌する権利というのはあると思う」

タマノは、それまで軽快なレスポンスであったが、急に間があいた。

タマノは窓の外から私の方に視線を向けた。タマノは、目が見えないため、視線を向けたその行為が、私を確認するためのものではないことは明らかで、行動として言うならば、首を回しただけ。

≪個性、謳歌、権利。本当の意味で、使っているの?≫

「そう言われると、分からない」

≪言葉が存在して、名前が与えられるということは、その名前が本来の目的とは違うものとしてこの世に誕生したという証になる。もともと在り様とは違う別のものが生まれたということになるんだ≫

「どういうこと?」

≪例えば、夕日。夕日ということの本当の意味を知らないけど、これが夕日だと疑わずに使っているのを知っている?人間は楽をしたい生き物だから、言葉を作った。その方が、人を支配しやすいからね。夕日を見て、それが夕日であることを人は知っているふりをしていて、次第に振りをしすぎて、現実現実という言葉に逃げこむことを覚えてしまう≫

私は、その瞬間に、タマノが生きている意味について考えてみた。それはとてもお節介な行為だと自認しつつ、頭の中で思考を巡らす。彼にこの問いをすれば、おそらく、意味はなく心臓が脈を打っているからだと答えることだろう。しかし、タマノが生きているのは心臓の鼓動であることに疑いはないものの、人間としての幸せが当てはまらないとしたら、タマノの人生はもう完成品だ。

今日も、明日も、これからもずっと、栄養が定期的に送り込まれ、言語データベースが日々更新されていき、時折やってくるボランティアとしての話し相手である私と、一時間会話をして、いつの日か死を迎える。そんなタマノから人の支配という言葉が出てきたことが、喉元を通過できなかった小骨のように、私の喉から下、胸の付近に刺さる。とても小さく細い違和感として。

「言葉自体に意味がないとしたら、私達が生きる上で指針にすべきこと自体も曖昧だということなの?」

《生きる指針自体が必要かどうかだと思う》

「生きる指針が必要かどうか考える必要がある」マイクを切っていたつもりが、私の言葉はタマノへのモニターに映しだされた。

《生きる指針というものが本当に必要なのか町中に出てみる?》

私は、タマノの言葉を受けて時計を見る。タマノとの今回の面会時間は残り30分。

「タマノと田山さんが大丈夫なら」私は言いながら呼び出しコールボタンを押す。

執事の田山さんは、すぐにやって来た。私は田山さんに、呼び出した経緯を説明する。田山さんは、快く許可を出してくれた。

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